その者が何者なのか、何処から来たのか、はっきり告げられる者はいなかった。彼は果てしなく無限に黄金を排出し続ける袋を携え、何かを隠しているかのような嘲笑をいつも顔に浮かべていた。色浅黒く、痩身で、不気味なよそもの商人は、行く先々の都市で人々を異空間にある、古の神々からも隠された呪われた倉庫へと人々を誘い、見る者の精神を蝕む黄金で覆われたインスマウス――あの海神ダゴンや大いなるク・トゥルーに仕える深きものども――の鱗を剥がさせた。そして代償として、人々がその労働の対価として納得と満足がゆくだけの黄金を常に配り、自らの世評を高めた。人々はよそもの商人に会うべきだと互いに勧めあい、我先にと彼の足元に傅いた。よそもの商人が行くところ、平穏は消え失せ、人々の睡眠と安らぎの時間は引き裂かれた。
彼が我らの町――巨大で古さびたアクロポリス――が現れた時のことを覚えている。いつ彼が現れたのか、確か数か月前だった筈だ。人々はよそもの商人のことを熱心に囁き合い、睡眠の刻現に彼の元を訪れ啓示を請い、慄然とした黄金を手に入れた。政治的にも社会的にも大変動が起き、あらゆるあまねくものはおよそ凄惨な恐怖と欲望に包み込まれた。私は友人から、よそもの商人の言いようも無い魅力について聞かされ、身を震わせながらも彼に会いたいと嘱望した。
ある晩、私達はリングの眠れないメンバーで集まり、夜の平原を横切ってよそもの商人に会いに行った。メンバーの一人であるブレイクは――彼は教養のあるセージで、冒涜性においては、かの『ネクロノミコン』をも凌ぐと言われる『エイボンの書』にも目を通した硯学だった――は最後まで反対していた。リングメンバー達はその理由を口々に問い質したが、ブレイクは最後までそれを口にすることを頑なに拒んだ。その代わり、時折熱に浮かされたように黒い翼とか三つに分かれた赤く燃え上がる目とかを囁き、すぐに正気に戻り口を閉ざした。皆は彼を奔放な想像力を持った夢想家だと笑い、よそもの商人に会いに行った。彼は私達を迎え入れ、腐った魚の臭いがで噎せ返る異次元の倉庫へと別々に誘った。我々は粘液に覆われたインスマウス共を殺し、すべすべした鱗を幾枚も剥ぎ取った。その度に脳髄を溶かしそうな腐臭が撒き散らされ、月の無い夜に空を飛び交う無形の物の如き悲鳴が響き渡った。私はふとブレイクの口走ったおぞましい事柄の数々を思い出していた。彼は神々の隠している宇宙の秘密の何を知り、口を閉ざしたのか。
私達は集めた鱗を、よそもの商人に渡した。身の毛もよだつ多角形の平板を彼が片手で翳すと、その鱗の表面にあたかも何者かの手によって薄浅彫りにされたかのような紋様があるのに気が付いた。その紋様は途方も無い異界的な類のもので、緑色の月の光の中を反射して蠢いているかのようにも見えた。私はその紋様に言い様も無く魅せられてしまい、片時も目を離す事が出来なくなった。よそもの商人は我々に心蝕まれるような輝き金貨を寄越し、立ち去らせようとした。しかし私はそれを拒み、鱗をよく見せてくれ食い下がった。すると彼は黙って手首を捻り、私に鱗の裏側を見せた。それから後の事は良く覚えていない。鱗の裏側は黒く歪な結晶状で、赤い線が幾筋も入っていた。その輝く表面を見つめ続けていると、その表面が透明になり、その内側に何面もの異次元の光景が次々に形作られていくような気がした。鱗の輝きが脳に不可解な仕方で作用し、不明瞭な幻影が心に浮かび消えて行くのに身を任せた。鱗の裏側の中の世界では、真っ黒いフードを被った人ではありえない異様な形をした者達が、灼熱の死の砂漠の中を延々と奇妙な行進の列を作り、定まった歩調で砂漠の果てにたゆたう黒いもやの中へ向かって進んでいた。もやの中では、フード姿の者達は手に持った捧げものを、砂に半身を沈めた顔の無い冒涜的な半人半獣の獣――黒いスフィンクスの像の前に不揃いな幾何学文様を描くように置いていた。その捧げものこそ、あの狂おしく魅力的な黒い鱗だった。朦朧としたその幻影の中で、鱗を捧げられた無貌なるスフィンクスの顔に、三つの裂けた赤い瞳が現れ、私を見、ぐにゃりと歪んで笑った。私は夜を切り裂く絶叫を上げていた。いつしか月と星は消え、耐えられない悪臭が周囲を包み、地獄の風が吹き荒んでいた。幻影から覚めた私は、完全な闇の中に見た。よそもの商人の貌が、スフィンクスの面貌と同じ事を。三つに分かれた赤く燃え上がる目、黒い翼……
冒険者よ。あの商人の忌まわしい依頼に群がる無謀なる者どもよ。あの鱗は名状しがたい砂漠へと持ち去られ、人ならざる種族の神官の手によって、顔の無いスフィンクスへと捧げられる供物だ。決して鱗を裏返してはいけない。あれは暗黒の星ユゴスに由来するもので、星より来たる者が冒涜的な閃きでインスマウスの体へと移植した、混沌を呼ぶもの――輝くトラペゾヘドロンの破片――なのである。そしてよそもの商人は、黄金の魅惑でもって平穏を奪い苦痛を満たし、人々を黯黒の底知れぬ深淵へと連れ去り、破片を集めさせているのだ。よそもの商人、彼こそは顔を持たぬ鬼神像――這い寄る混沌ナイアルラトホテップの化身なのである。
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